こんにちは。
福岡の心理セラピスト(リトリーブサイコセラピー)の前田 ひとみです。
さて3月も終わりますね。
あっという間に4月ですね。
その前に忘れていますよね。
え?何を?
忘れないでくださいよ~!!!
それはもちろん、
プロ野球の開幕であります!!!!!
行ってきました、ヤフオクドーム(≧▽≦)
熱いですね、熱いですよ、暑苦しいですよ!
(最後にわたしへの苦情が盛り込まれていますがスルーさせていただきます。)
応援を楽しみながら、中盤までは「お♡今日は勝つんじゃね♪」の試合展開だったので
あぐらをかきかき、鼻をほじほじ 心に余裕を持ちながら見ておりました。
ところがであります!!!
イキナリ同点に追いつかれ、逆転のピンチまで迎えてしまったんです(>_<)
ヒヤヒヤ、ハラハラ、イリイリしながらもその後は緊迫の試合。
最後はサヨナラ勝ちという、もうたまらない展開で試合終了しました。
最初は順調で、その後ピンチを迎え、最終的に歓喜に沸く。
もう、劇的な人生ドラマなワケです。
人生も順風満帆だけではつまらない、そう思いはするんですが、やはり窮地に立たされたと感じる時はそうとも言い切れなかったりしますよね。
それほど、ピンチの時というのはストレスが大きく自分にかかってきます。
だから避けたくもなるし、ピンチである状況をコントロールしたくもなるし、そもそもピンチなんかじゃない、と否定したくもなりますよね。。。
さて今日はそんな自分の人生での断崖絶壁のピンチとも言える喪失体験について書いてみます。
タイトルは、「子どもを失う意味」です。
人は、大きな喪失を経験するとどうなるのか、なぜそのようになるのか、そしてそこからの回復とは何か。
その心理的な道のりを、自分の体験をもとにわたしなりに綴ってみます。
そもそも、喪失体験とは何でしょうか。。。
例えば
- 大切な人を失う
- 身体機能や健康を失う
- 失業で社会での地位や繋がりを失う
- 夢を失う
- 暴力や性的被害、精神的被害を受ける
- 災害等で財産や思い出を失う
- 家族の絆を失う
など、実に様々な喪失があります。
その中でも今回は、「大切な人を失う」という喪失についてです。
そして、その大切な人が亡くなってしまった。
その場合についてです。
大切な人の死。これほど悲しい出来事はありません。
あまりの衝撃で現実を拒否したり、自分や誰かを責めたり、パニックを起こしたり、そこに何か意味を無理に見つけようとしたり、ひたすら死ぬことばかりを考えたりする。
これは、当然の反応と言えます。
自分に何が起こったのか分からないからです。
自己紹介でも書きましたが、わたしは妊娠7か月で子どもを失っています。
子宮内胎児死亡。死産。原因は不明でした。
医師からその宣告を受けた時、まさにわたしも自分に何が起こっているのか分からず、時間と思考と感情を止め、心を消しました。
現実など、受け入れるどころか、自分自身を無にすることでしか自分を生かすことができなかったし、保てなかったと思います。
地獄という言葉すら、薄っぺらく思えました。
どの喪失においてもそうですが、喪失を感じ、味わう前にまず「やるべきこと」が押し寄せてきます。
そして、それに向かっているうちは少し現実を忘れることもでき、そうやって心を守っているのかもしれません。
わたしの場合は出産がやってきます。
それまで知らなかったのですが、妊娠5か月を過ぎると出産という形を取ります。麻酔で眠っている間に赤ちゃんがお腹から出されることを想像したわたしは、どれだけ陣痛や産みの痛みに耐えても、それが絶対に産声を聞けることのない悲しい出産になることを知ります。
しかし、出産の恐怖に目を向けているうちは、お腹の中の息子が亡くなったことを少しだけ忘れることができます。
心が必死に自分の命を守ろうと現実を拒否するんです。
喪失の5段階という理論で言われていますが、
人がどのように喪失を受け止めていくのかを
段階で示したものがあります。
否認→怒り→取引→抑うつ→受容
の流れの中で、人がその時によって直面する心の状態を5段階に分けてあります。
これは、必ずしも同じような流れや段階を踏むわけではなく、人によっては飛ばしたり、起こらなかったりもするので、あくまでも指針のようなものになります。
到底受け入れられない子どもの死。
わたしは、
そんなに悲しいことじゃない、
また次がある、
今はその時期じゃなかった、
そんな言葉を自分に言い聞かせながら、すぐに今ではない時に目を向けることで現実を見ることを拒否しました。
現実を見て事実を受け入れてしまったら、強く深く悲しむことが分かっている。
それに耐えられないからです。
わたしは、この状態の時にリトリーブサイコセラピーと出会います。
何も入れていなかった心に、少しずつ感情が入っていきました。
そして段々と分かってきます。
あの子は死んでしまった。。。
もう二度と会えない。。。
息子と共に描きたかった未来は来ない。。。
否定したいのは、現実ではなくその悲しみでした。
悲しむ自分は無価値で無意味な人間で、誰からも必要とされない。
その思いこそ、わたしの1番感じたくない感情だったんです。
人によって、その感じたくない感情は違います。
なので大切なのは、その喪失体験により今まで持っていた自分の中にある何の感情が出てきているのか、ということに目を向けることです。
心理セラピーを受ける中で、わたしは何度も何度も悲しみました。
外出した時に出会う子どもの姿を見て泣き、
妊婦さんを見かけては泣き、
息子が残してくれた、小さな小さな手型と足型を見て泣き、
あの子だけがいない現在に泣き、
あの子だけがいない未来に泣き、
生きている自分に泣きました。
悲しみは、感じて味わうことで受け入れていくことができます。
否定や時間では、抑えつけることはできても受け入れることはできません。
その悲しみと涙と想いを安全に出し、表現する。
そしてそれを、ひとりじゃないのだと安心して受け止めてもらう。
その経験をしました。
自分に起こっていることが自分で納得できていくと、それは安心へと変わります。
自分ひとりでできないことは、人にお願いしてもいいんです。
それは依存ではないからです。
喪失は今までの自分の世界を破壊します。
だからこそ、大きな大きな支えが必要になります。
子どもを失う意味、それはお母さんが生きる意味へと繋がります。
お母さんが自分を癒すことは、愛しい我が子を愛することに繋がるのです。
だからこそ、この喪失という体験を慌てることなく、急ぐことなく、消すことなく、味わい感じて受け止めていく過程はとても大切です。
いつになったら受け止める時期が来るのか、自分が弱いからできないのか、亡くなった人への愛情が足りないのか、自分はそんな価値もないのか。。。
そう思うかもしれません。
本当は、そんなことはないんです。
それでも、罪悪感から自分を責めたい時もあります。
それはいけないことではなく、どれも、どの時もそれを味わって感じていいんです。
喪失で味わったどの感情も、生きる意味へと繋がります。
さて、長くなりましたので、 受け入れることを始めたわたしの変化については、また次回書かせてもらいます。
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