こんにちは。
福岡の心理セラピスト(リトリーブサイコセラピー)の前田 ひとみです。
今回はこのブログ始まって以来の続編です。
(だいぶ歴史がありそうな言い方をしてみました。。。ええ、言ってみたかっただけなのであります。。。)
前回は、喪失について書きました。
公園に行ったわたしが財布とケータイを拾い、大変すごくとても親切に警察に届けたという涙あふれる感動のおはなしを。。。
はい、それは紛失!!!
(めんどくさくても、1回つっこんでみると楽しくなって。。。きません。。。ね。。。)
だって、拾って届けたのはホントだもーーーーーんっ (● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
(そういうことを言ってるんじゃない。。。)
前回は、「平成」のしめくくりに、喪失を受け入れられるようになるまでの過程を書いていきました。
今回は、「令和」の初めに、喪失からの回復、再生について書いていきます。
悲しみを安全に表現して受け入れられるようになると、「もうだいぶラクになってきた」という状態がきます。
これはとても喜ばしいこと。
ところが!!!です。。。
今まで悲しみを認めず拒否してきた分、表現したことにより事実を再び再確認することになります。
これがつらいんですね。
抑えて押さえて抑えつけてきたものが安全に外へと出ていく。
とても喜ばしいことなのと同時に、それだけ必死に抑え込んでいた感情です。
出す前や、出した時に抵抗が起こるのは当然です。
これは誤解ないように言っておきますが、悲しみを持つことがよくないといっているのではありません。
その時期によって、その人によって感じている度合いは違います。
悲しんでも悲しんでも悲しみ足りない時は、悲しんでいていいんです。
ただ、もうある程度その悲しみを自分の中で消化できているのに、悲しみを持ち続けている。
その時は考えてみてほしいんです。
わたし自身のリトリーブサイコセラピーを受けた経験で言うと、
悲しみは、あえて自分が残しておきたい感情でした。。。
わたしは、悲しみの中にいる時は息子とつながっていられたんです。
不思議な感覚かもしれませんが、悲しんでいる間はわたしは自分の人生と向き合わずにすんでいました。
悲しんでいれば、自分はそこから動かなくていい。
息子を、自分の人生を逃げるための原料にしていたんです。
自分を生きていくよりも、息子を想い悲しんでいる方がラクだったんです。
わたしはわたしのために生きていない、と心理セラピーのセッションを受けて気がついていくことになったんですね。
喪失について様々な考え方があると思いますが、わたしはそこらへんは本人にとってよいものとなるのであればいいと思う折衷論派です。
(大きく段階論と課題論とがあると思っていますが、今回は課題論に沿って遺された人が取り組んでいく課題について話していきます。)
悲しみや現実を受け入れたあとに、
新しい環境に適応する→亡くなった人との関係を位置づけしなおし、生きていく
という課題に向き合っていく。
大切な人を失う経験をすると、
- 何もしてやれなかった
- どうして今までの時間をもっと大切にできなかったのか
- 自分のせいだ
という罪悪感を持ちます。
それが、悲しみと共に徐々に自分の中から流れ出ていく。
そうして、自分の人生を生きていく、そう思うようになった時に
- 亡くなった人を忘れていく
- 自分だけが進んでしまう
- 自分だけが生きている
という新たな罪悪感が現れてきます。
これが、先ほどの悲しみの中にいる間は息子とつながっていられる、というわたしの状態です。
悲しみから出て、罪悪感を手放してしまったら、息子との唯一の繋がりを失ってしまう。。。
そんなことはないのに、悲しみから出るのが怖くて握りしめていました。
これでは、自分で自分の人生を止めてしまっているようなものです。
生きるのがさらにつらくなります。
では、どうすればいいのか?
わたしは自分でどうしようもない時は、リトリーブサイコセラピーの心理セッションを受けました。
そして助けと支えを借りながらその人がいなくなった世界に取り組んでいきます。
あの子だけがいなくなってしまった以外に何も変わらないこの世界を、自分の人生として再びどう創っていくのか。
絶望、悲しみ、苦しみ、つらさ、痛み、言い表せない感情を感じながら、それでも生きていかないといけない自分は、未来をどう創っていくのか。
あの子と同時に失ってしまった自分の価値を、再びどう創っていくのか。
これほど自分自身を問われる時間と経験は、なかなか持てるものではないと思います。
子どもを亡くすという経験で、わたしは息子に問われたように思います。
アナタは
本当に孤独な人間なのですか?
本当に無価値な人間なのですか?
本当にその人生を諦め、捨ててしまうのですか?
問われたその質問の答えこそが、
生きていく意味を、今までの世界から子どものいない世界へとつながりなおしていく、ということではないでしょうか。
悲しむことは、自分がなくなることではありません。
泣くことは、ひとりぼっちな自分を思い知ることではありません。
失うことは、自分が無価値な人間だと証明することではありません。
それを受け取り感じていき、自分を取り戻すことは必ずできます。
そして、これからもどの段階も課題も1度経験し味わったから終わるのではなく、何度も繰り返します。
それは仕方のないことです。
それほどまでに愛しているのだから。
だからこそ全ての感情で繋がり、起こった全ての出来事を抱き、共に生きることはできると思います。
自分が生きることで確認していく、と覚悟を決める。
こうやって亡くなった人と新たなつながりを築くことはできます。
息子が生まれてきた日の朝、チカラ強く現れた朝日に輝く太陽。
お別れする日の朝、ハート型の雲へと続いていた虹。
わたしは今でも忘れません。
これからも、遠くてもそうやってつながっていきます。
今までとこれからの人間関係に感情を込めて関わりつながっていく。
いつも側にいることはできないけど、いつも共にある。
安心して、離れることができる。
愛情とは、そうやって変わりながらつながっていくもの。
喪失で失われた心は、必ず再生していくことができます。
わたしがこれから心理セラピストとして一緒に創っていきたい未来を込めて書きました。
大人がシアワセになることで子どもがシアワセになる、そしてそれは愛するあの子の笑顔にもつながっていく、わたしはそう信じています。
つらすぎる喪失経験は乗り越える必要はない、とわたしは思っています。
喪失は乗り越えることが大切なのではなく、受け入れ、深く強く悲しみ、そこから再び自分の生きる意味を持ち、自分を生きていく意思を持つことこそが大切。
わたしは、そう感じています。
喪失は、自分の再生を教えてくれます。
これは、つらい喪失を経験した誰もが思う
「なぜ、自分にこのような事が起こったのか」という問いの答えにもつながると思います。
わたし自身、前回と今回の記事を書きながら思うところや感じることがたくさんありました。
そして、子どもを失った経験を改めて再確認して受け止めていく機会にもなりました。
そして思ったんです。
今の自分だからこそ、できることはあるのではないか、と。
わたしは、心理セラピストを名乗ることはしていますが、まだまだ未熟で勉強すべきところがたくさんあります。
それはこれからもずっと変わることはないと思います。
その自分ではありますが、精一杯の自分を込めてリトリーブサイコセラピーのセッションを届けていこう!そう思ったんです。
その一歩目として、今月から
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を始めます。
詳細はまたブログ等で告知させてもらいますね。
coming soonでございます!
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