福岡の心理セラピスト(リトリーブサイコセラピー)の前田ひとみです。
先日、年中さん同士のケンカに立ち会いました。
もう一触即発で掴みかかりそうな勢いだったので、間に入ることにしたのですが、互いに譲りません。
自分の座る場所を巡ってのバトルだったのですが、
自分の場所を取られたと思っている子
キツい言い方をされ怖い思いをした子
の互いの主張を譲らず、それぞれ自分には非が無いと思っているから相手を責めまくるんです。
座る場所を取らないで欲しいという思いから、キツく怒った自分
厳しい口調に悲しくなって、腹も立ち意地でも動かなかった自分
というもう一つの事実を自分が納得したことで、仲直りをしていました。
物事って、人それぞれ立場や状況において解釈の仕方は変わってきますよね。
自分の都合で物事を見ることは多いと思います。
自分の解釈と事実。
それが一致している時は、問題は起こりませんよね。
一致しない時に、
誰かと揉めたり
傷付いたり
相手を責めたり
を繰り返しながら、時には加害者、時には被害者になるのだと思います。
事実をまっすぐに捉えられない。。。
ねじ曲げて受け取ってしまう。。。
あなたはひねくれてるね、なんて言われてしまう。。。
今日はそんな、ひねくれ者と言われてしまう心理、
「事実をねじ曲げる心理」というテーマで書いていきます。
<本当の問題は何か?>
この、事実をねじ曲げてしまう心理に潜んでいるのは、共依存の問題です。
あなたはこんな経験はないですか?
自分はこんなにも辛いとか、
こんなに悲しませておいてそれでいいと思っているのか、
あなたのために言っているのに、
あなたが心配だからしてるのに、
と、自分は被害者だと訴えながら責め立てられた経験。
これって、実は感じたことがある人は多いと思います。
あなたのために、
相手のために、
誰かのために、
やっていると主張して、自分を正当化しようとして言われているので本心ではすんなり受け入れられないと感じるんですね。
これって、相手に対して罪悪感を感じさせて、相手を何とかコントロールしようとしているんです。
けれど、本当は自分自身の中にある
不安
本音
腹黒さ
を知られたくないので、あなたのためと言っていることが多いと思います。
これ、幼少期の親子関係で思い当たることってあると思うんです。
親の
かわいそうな姿
大変そうな姿
落ち込んでいる姿
怒っている姿
がマンしている姿
を見ると、子どもは自分が何とか親を助けたいと思います。
なので、親の思いや希望や願望を叶えようと頑張ります。
それはいつも自分の思いや希望や願望と一致しているとは限りません。
一致しない時に、親の都合を優先し、選択するんです。
そうすることで、子どもは自分を
愛してもらい
見てもらい
守ってもらおうとするんです。
なので本当は、
自分は愛されていないかもしれない
自分は見てもらえていないかもしれない
自分は守ってもらえないのかもしれない
という事実に晒されそうになった瞬間に、その事実をねじ曲げないといけなくなるんです。
そうやって、事実をねじ曲げることで自分をずっと守ってきているんです。
愛して欲しい人
見て欲しい人
守って欲しい人
への思いが叶わず、その現実を受け入れるのがつらいので事実をねじ曲げる必要があったんです。
罪悪感を利用するんです。
<このまま続くとどうなるか?>
罪悪感を利用するということは、罪悪感で人と繋がっていくということです。
事実を突きつけられる度に、親子関係でやり続けてきた
「相手に罪悪感を背負わせる」
「罪悪感を使って自分を止める」
という両方を行き来しながら、
「子どものことを愛している親」
「親のことを真剣に思っている子ども」
という自分の思い描く自己像が壊れないように、
事実をねじ曲げること
繋がりを無くすこと
諦めることがやめられなくなるんです。
親から、自分を持つことを許されていないと
イヤだということや、思うことでさえ許されないと思い込んでしまいます。
親がいいことだと思っていること、
が、
わたしのいいと思うことになっていってしまうんです。
その思いを持ち続けていると、人と関わる時に
人を自分とは違う人という事実を認めていないということになります。
事実というのは自分ひとりだけのものではなく、他者とも共有しているんです。
それをねじ曲げるというのは「他者を尊重しない行為」になるんです。
事実をねじ曲げて、自分の思い通りにしようとしているんです。
自分もそれがねじ曲げているのではなく「事実」だと信じているんです。
自分を待たずに相手のためを思って。。。という思いから始まった行為は結果として
人を尊重せず、自分の思い通りにしようとしてしまうことになってしまうんです。
<解決に向けて>
関わる人が、いつも自分を無視され軽んじられているように感じる。
そうすると、当然あなたの周りから人は居なくなっていきます。
自分の本音や事実から逃れながら生きるのは、本当に自分を生きていると言えるのでしょうか。
ねじ曲げることなく事実をそのままに受け取ってしまうと、今までずっと守ってきた自分の自己像が崩れてしまいます。
事実をねじ曲げてまで、守りたい自分の価値観があるんです。
ねじ曲げていないと、今まで信じてきた自分が無くなってしまう怖さがあるんです。
そこを認めることって、とても勇気がいることだと思います。
愛され、守られなければ生きられないと信じてきた自分の自己像。
今はもうそれが必要ではないのに、大事に握りしめているのはなぜでしょうか。
自分放棄することで、本当は人生のラクさを感じてはいないでしょうか。
誰かに求め、誰かのせいにするためにも、事実はねじ曲げられ続けます。
そこにあるのは依存心です。
愛情を人に求めるのでなく、自分に求める。
自分を自分で育てていく。
自分がそれをするのだ、という事実を真っ直ぐに受け止めること。
そこから、この問題は解決へと向かっていきますよ。