相手のことばかり気になってしまう。。。

福岡の心理セラピスト(リトリーブサイコセラピー)の前田ひとみです。

 

先日、お店でこんなやりとりがあっていました。

客「このカード使えます?」

店員「これだとちょっと無理なんです。」

客「すいません。なんかややこしいこと聞いちゃって。」

と、現金でのやりとりが行われている中、そのお客の友人らしき人が、

「なんで使えんの?対応できないとか不便なんだけど。」

とイキナリの苦情。。。

 

これ、やりとりの中でこんな二つのことが起こっているんです。

 

  • 自分にどうにもできないし、自分に責任がないことにまでも自分のせいに感じている客。

 

  • 相手の責任で行うことなのに、そこに口を出さずにいられない友人。

 

さて、アナタ自身はこんなことはないでしょうかか?

 

自分のことより、相手のことを考えている。

相手のことなのに、自分のことのように感じる。

 

今日はそんな、自分のことではなく、相手のことや相手の反応ばかりを気にしてしまう心理、

「相手のことばかり気になってしまう。。。」

というテーマで書いていきます。

 

 

 

 

自分が悪くないような時にも自分を責める。

自分のことでもないのに黙っていられない。

 

どうしてそんなことが起こるんでしょう?

それは、アナタが自分自身ではなく人の感情のケアをしているからなんです。

 

 

 

<本当の問題は何か>

自分と相手の間に境界線がないことで起こります。

この境界線が曖昧だと、自分と相手の区別が曖昧です。

曖昧なので

相手のことも自分のことのように感じたり、

自分のことなのに相手に全て委ねたり、

ということをしてしまいます。

 

そこから共依存の問題へと繋がっていきます。

 

一見、相手のことを自分のことのように考えたり感じたりすることは優しさや、人間の器の大きさのように見えることもあります。

 

けれど人間は、相手が自分についてどう思い、どう感じるのかに責任は持てないんです。

 

それは、相手が決めることだからです。

 

境界線がないと、この相手の存在や意思を尊重できないんです。

 

自分の荷物でないものを、ずっと背負いながら生きていくことになるんです。

 

時には、それで頑張れたり、パワーが出たりすることもあります。

 

短期間の話なら、その荷物は自分にとってよい負荷になるかもしれません。

 

しかしそれがずっと続くとなると、それは段々と重荷になっていきます。

 

重荷を背負い続けながら生き続ける。

それだと、アナタはずっと

相手を飲み込み、

相手のために自分を消し、

相手のために生きることになります。

だからこそ、境界線は必要です。

ならばすぐに境界線を保てばいい。

確かにそうなんです。

しかし、なぜできないのか?

それはね。。。

苦しくても、実はそれがラクだからです。

 

<このままだとどうなるか>

 

自分に起こったイヤな出来事の全てを相手のせいにできるんです。

 

相手のために生きながら、そうやって自分の責任を相手に押しつけています。

 

相手の人生の責任を取りながら、自分の人生の責任は相手に取ってもらおうとしているんです。

 

だから、アナタは何一つ自分で

決めたり

選んだり

行動したり

できなくなってしまうんです。

 

自分を持たないと、何でも相手が決めてくれる。

相手を優先して、自分を消していれば安全。

 

それは究極のラクです。

自分のことを何も考えなくていいから、何でも相手がやってくれるまで待っていたらいいから。

 

けれど、それは本当のアナタの人生の楽しみではありません。

 

だってアナタは

自由がなく

安心がなく

自分自身がない

そんな人生を送らないといけないから。

 

それがずっと続く人生は、アナタにとってシアワセですか?

 

<解決に向けて>

境界線は、何を受け入れて、何を拒否するのかを自分が決めることです。

自分が何を好きで、何が嫌いなのかを知ることです。

 

アナタが自分で自分を知る。

アナタが自分で自分を考える。

アナタが自分で自分を存在させる。

 

その積み重ねの繰り返しで、罪悪感や義務感からではなく、

 

自分の領域に責任を持つ

相手の領域は相手に任せる

ということができるようになります。

 

今までのアナタは、

子どもの時から自分の領域を守られずに尊重されていなかったのかもしれません。

 

親の責任を持つこと、心のお世話をすることで自分を守ってきたのかもしれません。

 

これからのアナタが、大人になり自分を持つ決意をすることは、親の責任を親へと戻し、自分の人生を自分で歩いていく宣言をするということではないかな、とわたしは思います。