福岡の心理セラピスト(リトリーブサイコセラピー)の前田ひとみです。
幼稚園の子どもたちなんですが。
字に興味を持つと、自分の想いを手紙にして伝えようとします。
自分の想いを伝えたい。
そのひとつの手段として文字を知った時、まあ、ハマりますよね(笑)
鬼のように、
せんせい、「あ」はどう書くとー?
せんせい、「てんてん」てなにー?
という「この字どう書くと攻撃」の沼にたまにハマります。
「せんせい、『お』はどう書くん?」
と聞かれたので一緒に書いたあと、自分で書き直して
「せんせい、おてがみあげる!」
と持って来てくれました。
手紙を開くと中には
「おしっこ」
と書いてあり、本人は大爆笑。。。
ホントにこの時期はなんでこんなにおしっこやらうんちやらで笑えるんでしょうか!
ったくもう!と笑っておりますと、
「せんせい、『だ』はどう書くん?」
と即座にまた次の攻撃。
一緒に書いたものの、
おいおい、ビックベン(だいべん、漢字自粛。)とか書いて持ってくる気ではなかろうな!
と思っていた数分後、
「せんせい、おてがみあげる♡」
キタ。。。。。
なんか絵も描いてたし、ビックベンだらけの手紙をそんな笑顔で持って来たのではあるまいなキミは!!!
とちょっと恐怖で中を開くと。。。
「だいすき♡」
。。。。。
ぬぅ!!!!!!
かわいいぢゃないかー!!!
かわいすぎるぢゃないかー!!!
先生、ひねくれた大人でごめんよー!!!
どう書くと攻撃を一緒に書きながら、溢れる子どもたちの想いにきゅん♡とした時間でした。
「きゅん♡」で人と繋がり、関係を育てていけることはとても素敵なことだと思います。
けれどそればかりではなく、人生には時に人との繋がりの中で胸が締めつけられるほどの経験をすることがあります。
今までの自分が崩れ落ちるような、自分が大切に大事にしていたものを失ってしまった時です。
その失った瞬間に、自分の人生はこれで終わったのではないかというくらいアナタ自身が揺らいでしまったのだとしたら。
それはアナタの「あること」が関係しているかもしれません。
その「あること」について今日は書いてみます。
そしてそのあることに気がついた後に、やる事こそが「紡ぎ直し」なのだと思うんです。
「紡いで生きる」とはどういうことか、わたしなりに想ったこと、感じたことを書いていきます。
自分の大切なものを失う。
それは単に人との別れだけに留まるワケではありません。
自分が大切にしている
人
物
関係
仕事
健康
信念
これらを失うことも、アナタの心と身体に莫大な痛みを与えます。
その時にただただその悲しみや苦しみや怒りや恨みや痛みに耐えるしかないのだとしたら、人は喪失体験を経験すると限界と崩壊を迎えてしまうと思います。
どうしてこんな事に。。。
こんなはずじゃなかったのに。。。
なんでこんな目に合うんだろう。。。
そうやってやり場のない想いに圧倒されながら、仕方がないと自分に言い聞かせている時、アナタは失った大切なものから問われています。
アナタは今のままでいいですか?
アナタの人生はそれでいいですか?
アナタは自分とどう繋がっていますか?
アナタの人とどう繋がっていますか?
失った大切なものからそう問われています。
そして、「改めて自分と向き合うこと」が大切なものを失った意味なんじゃないかなぁとわたしは思います。
そして失った痛みは、時と共に薄れていくものでも、慣れていくものでも、諦めるものでも、乗り越えるものでもないと思うんです。
感じる様々な感情を、自分が感じて受け止めること。
これができるかどうかが、喪失体験の意味を変えます。
けれど、人はこれこそ避けたいんです。
ここで感じる痛みが辛すぎるから逃れたい。
それは幼少期に、アナタが大切な人とどのような愛着関係を結んできたか、に深く関係しています。
アナタの大切な人から受け取ってきた愛情が
無条件の愛情だったか。
条件必須の愛情だったか。
アナタそのままを受け入れてくれた関係だったか。
相手に都合の悪いものを拒絶された関係だったか。
そこでアナタの自己肯定感の育み方が変わります。
アナタがアナタである安心感。
アナタがアナタでいい安全感。
この感覚がないと、大切なものを失い自分と大切なものとの絆が崩壊したと感じた時、アナタ自身が崩れ落ちてしまうんです。
やっぱりわたしには無理なんだ。
だからわたしは価値がないんだ。
どうせわたしはダメなんだ。
この崩壊は、今までアナタが頼りない自分の土台の上に築き上げてきた
自信
自己
安心
というメッキが崩壊して、
不安定な自信
不確実な自己
不誠実な安心
という本来の自分の不安と恐怖が出てきたからです。
大事なものを失った時に出てくるアナタの不安と恐怖こそ、アナタが幼少期に大切な人と築いてきた愛着関係そのものなんです。
だから失った痛みは、消してリセットして無くしてしまえばいいものではないんです。
失ったからこそ、その痛みを自分が感じ、自分と向き合い、自分が受け入れることが大事です。
そして、今までの自分の自分自身との繋がり方や、人との繋がり方をもう一度繋ぎ直すことが大切なものを失ったことの本当の意味ではないかとわたしは思います。
わたしも、大切な存在を失った時
自分の存在意義や
生きることの意味を
失いました。
どうしてこんな事になったんだろう。
わたしが何か悪いことをしたんだろうか。
生きていたっていい事なんて何もない。
その自分への不信感や不安定さは、そのままわたしの両親との繋がり方でもありました。
失うことは、自分が「生きる」ということと向き合う機会であるように思います。
失った大切な存在。
それがアナタにあったことは確かです。
失ったけれど、それは確かにあったんです。
大切な存在を失ったことで
自分を尊重されたことに気がつくかもしれません。
自分が愛されたことに気がつくかもしれません。
紡いで生きることの意味を知るかもしれません。
どれも、アナタだけが感じることができる安心感の土台になります。
そして。
失って、生きるということに向き合った後、それで終わりではないのだと思います。
向き合い、気づいたあと、
アナタが自分とも、人とも、繋がり方を紡ぎ直すことが「生きる」ことから「生きていく」希望へと変わっていくことに繋がるのだと思います。
出会いが痛みや苦しみとなったことの意味を、その存在との関係を通して向き合った時、アナタの中で失った大切な存在との絆を紡ぐことができます。
きっと見守ってくれているという安心感
離れても側にいてくれるという安心感
その存在から学んだ自分の在り方を、向き合い受け止めていくことは、アナタが新たな関係を紡いでいく時の希望になります。
失った大切な存在との間で築き直した愛着の絆は、アナタの「これから紡いでいく大切な存在」との間で育み直され、生きていく強い土台になります。
それが現実を生きていくということなのではないかと思います。
自分の土台。
自分の今の繋がり。
自分のこれからの人生。
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