何だか納得いかない。
これって理不尽。自分は何もしてないのに。
人生でそんな思いをすることってあると思います。
人混みで勝手にぶつかられた挙句に舌打ちされたような
理不尽な出来事に対して猛烈に怒りが出てくるのなら
それはそもそも親からの理不尽な扱いに納得がいっていないからなのかもしれません。
親に怒っているから。
親を恨んでいるから。
だからと言ってその本当の気持ちを出しているかというと、
結局は飲み込んで自分ひとりで収めているいることが多いんです。
なぜ理不尽を飲み込むのか?
言ったところで仕方ない。
今更言ってもどうにもならない。
伝えてもムダなだけ。
と諦めてみせたり、
親もその時は大変だった。
自分にも悪いところがあった。
責めるなんてかわいそう。
と罪悪感が出てきて止めたり。
これは
親への本当の気持ちを感じているようで
ただただ抑えて誤魔化している状態です。
結局は自分の中で感じている気持ちを
出さない
伝えない
間違っている
という選択をしています。
自分の感情を優先できないのは、
親に対する本当に感じている気持ちを出すことを恐れているから起こります。
親に感じている本当の
怖さ
怒り
恨み
悲しみ
寂しさ
という気持ちを自分のこととして受け止めることが怖いんです。
親の真実に向き合うことが怖い
これは、
親に向き合うことが何より怖いということです。
親が本当は自分のことを
何も見ておらず
何も関心を持たず
何も分かろうとせず
自分のことを
要らない存在だと
必要としていないのだと
愛していないのだと
思い知ることが自分が壊れてしまいそうなほどに耐えられないのだと思います。
親から逃げておけば、
本当の気持ちをぶつけた先に待っていると感じている
捨てられる怖さ
ひとりになる怖さ
何も変わらない絶望感
自分を大事にされないみじめさ
からも同時に逃げることができるからです。
親の真実から逃げておけば、
イヤだ、イヤだと言いながらも親を責めずに生きていけるからです。
親を守りながら
親と繋がりながら
自分を捨てながら
自分を守っているからいつも理不尽を感じて当然です。
そもそも、
あなたの人生は親のためにあるでしょうか?
あなたの命は親のためのものでしょうか?
それがラクであるならいいんです。
自分を失くして親を恨んでいた方が安心ならそれも自分の決めた人生です。
けれど
本当はその扱いを受ける自分に納得がいっていないのならば
どれだけ苦しくても
どれだけみじめでも
どれだけ怖くても
この事実から逃げてはいけないと思います。
もう1回だけ。あと1回だけ。
事実から逃げれば逃げるほど
それは自分の人生を賭けて親を守り助けていることになります。
親のために自分は幸せにならないと
自分で宣言して決めているようなものです。
幼少期に
親と共に生きていきたいと幼児が思うことは当たり前です。
それを大人の今でも感覚的に持ち続けて生きていることが
抑圧という今の問題行動に繋がっています。
自分が親を超えて生きていきたいかどうかは
親以上に信じられる人と
心を繋げて生きていきたいかどうか
なのだとわたしは思っています。
親よりも信じたい人にだからこそ本当の気持ちは出せるものです。
誰にでも本音を出さないといけないことはないのだとわたしは思います。
自分と人とを信じたいと思うなら
親の真実から目を逸らさずにしっかり見て超えていくことが大事です。
親の真実を超えるためには
怖さを共に受け止め
怒りを共に出してくれる人を
信じる勇気が必要です。
傷ついたからこそ
裏切られたからこそ
手痛い目に遭ったからこそ
信じることが怖くなりますよね。
その時に
もう1回だけ。
あと1回だけ。
手を伸ばす勇気を持つことが
過去から続く親の残像や残骸や呪縛を
手を離すチカラになります。
理不尽が平気なワケがありません。
否定されて平気なことはありません。
ひとりが平気なはずはありません。
本当は、ぜんぜん平気ではないんです。
人を信じるチカラを自分の中に取り戻すためには
親のように自分を否定してくる人ではなく
気持ちを共感してくれ
自分を大事にしてくれる人と
繋がり直すことが大事なんです。
その体感こそが心理セラピーなのだと思います。
例えそれがその場限りの疑似体験のように思えても、
自分の身体で体感したことは身体と脳が覚えています。
子どもの体感をもう一度
人の手を借りて新しい体感へと変える。
その体感こそが
自分への安心感であり
人への信頼感だと
わたしはそう思います。
その安心感と信頼感は必ず自分の中に取り戻すことができます。
心理セラピーでしっかりそのサポートをさせて頂きます。